今宵またあの酒壺を取り出してのう、
そこばくの酒に心を富ましめよう。
信仰や理知の束縛を解き放ってのう、
葡萄樹の娘を一夜の妻としよう。
ルバイヤート
カート・ヴォネガット・ジュニア 著、ハヤカワ文庫
God Bress You, Mr. Rosewater 1965. ハヤカワ文庫だけどSFではない。
これは在りし日の偉大な物語ではないし、やがて解かれるべき大いなる謎でもない。始まって終わるあらすじとして偉大なわけではない。むしろ尻すぼみで今一な感も残る。淡々としているけど退屈しない。センテンスの強度が高い。密度が大きい。なんと云ったらよいだろう。上手く云えない。心が強く動かされるのだ。これをなんと呼ぶのだろう?
思わず嗚呼と嘆息して振り仰ぐのだ。それはロマンティシズムでもスペクタクルでもミステリでもない。シニシズムでもニヒリズムでも、スラップスティックでもない。悲劇でも破滅でも栄光でもないのだから、そこで神に祈るわけにも、呪うわけにもいかない。ただこう呟くのだ。
「そういうものだ」
主人公は隣人愛に取り付かれた大富豪、エリオット。彼に電話をかけると、彼は優しい口調でこう応えるだろう。
「ローズウォーター財団です。なにかお力になれることは?」
2005/08/17
この永遠の旅路を人はただ歩み去るばかり、
帰って来て謎をあかしてくれる人はない。
気をつけてこのはたごやに忘れ物をするな、
出て行ったが最後二度と再び帰っては来れない。
ルバイヤート
テッド・チャン著、ハヤカワ文庫
Story of Your Life 2002. SFの定義は諸説あるが、「IF (もし)を無矛盾に突き詰めた思考実験」ということが挙げられよう。そのなかから Sense of Wonder が生まれる。つまり、世界が少しずらされる。SF の Science 濃度はそんなに高くないけど、紛れも無く SF。ずらされた世界を受け入れられるかどうかが読者の技量如何に左右されるのだから、ちょっと損な分野かもしれない。どんな愚か者にも感動を与える芸術とは違うのだ。これは SF に限らず広くジャンルものに該当することかもしれないが。
SF は昔から短編集と相性が良い。メアリ・シェリー (1816) もジュール・ヴェルヌ (1862) もブラム・ストーカー (1897) もジョージ・オーウェル (1945) も長編作家だったが、ポー (1865) もH・G・ウェルズ (1895) も短編だった。そしてアシモフをはじめとする現代以降の作家がアメージング・ストーリーズ誌やアスタウンディング誌で発表する中で短編形式はSFに欠かせない形態となった。そもそも、Q.E.D. (quod erat demonstrandum) にそれほど紙幅は必要ない。
そして、テッド・チャン。この短編集はSFの現代的な形態と古典的な精神の幸福な出会いだ。SF 短編集の中で最も好きなものの一つだ。私は表題作が一番好き。次は「地獄とは神の不在なり」だな。
失ったものを求め続けるんのは日常だ。
2005/06/25
土を型に入れて作られた身なのだ、
あらましの罪けがれは土から来たのだ。
これ以上よくなれとて出来ない相談だ、
自分をこんな風につくった主が悪いのだ。
ルバイヤート
川端康成著、新潮社
短編三つ。
『みずうみ』より先鋭的。すごい。何れもキモに強く共感。解説は三島由紀夫。根も葉もない花だけの花、物のない光だけの光。
2005/04/30
命の幹が根を掘られて、
死の足元にうなじをたれよう日、
身の土だけは必ず酒の器に焼いてくれ、
しばらくは息をつこう、酒の香に。
ルバイヤート
吉本ばなな著、新潮社
人から借りて読む。何の気になしに貸してくれたのであろうが、なかなかどうして、かなり良い。
キッチン、満月-キッチン(2)、ムーンライト・シャドウの三つの短編が収められている。キッチンとキッチン(2)は同じ主人公だが、ムーンライトシャドウは別のお話。でも、主人公のキャラクタは同じ。私は、最も好きなのがキッチン、最も好きな登場人物は柊。確かに、こんなヤツが近くにいたら放っておかない。
吉本ばななの語り口は軽妙だ。地の文は文語体でありながら、主人公の感情が、時に感嘆符を伴う口語体で表現され、その直截な響きが迫真性を持つ。
キッチンの登場人物は三人。舞台は台所。主人公が「絶望してごろごろしていた」というところから物語は始まり、何とはなしに楽園に至り、やはりごろごろする。その楽園が、マンションの一室の台所 - キッチンだ。主人公はキッチンの巨大なソファーに起居しながら、毎日を過ごしていく。
登場人物はみんな優しくて物分りが良くて、悪意や妬みや嫉みやそういったものとは縁がない。そして強く一人で立ち向かう。その横に立っていてくれる人がいて、心配し、気にかけて、それが楽園だ。疲れてしまってどうしようもないとき、縁もゆかりもないけれども、ただあなたが好きだから、心配だから、見所がありそうだから。理由は色々あろうけれども。世界は美しいもので満ち溢れているのだし、人はみなやさしいのだし、こんなことで幸せになったり、感動したりするのだし。美しいもの、幸せなことがあると信じずにはおれない。
真っ黒に塗り込められて何も見えない、こんなくそったれな毎日であるのに、それでも美しく、優しく、甘やかなものがあるということに、幸せを感じることがあるということに驚嘆する。三日月が、満月が、十六夜に月光がひんやりと染み渡るような。欲や悪意や、そういった常識ではない、ただ普通の、優しい人々の交流が、思いが心が癒しが、そういう感じのものがここにある。
この本の舞台は、そんなちょっとした楽園だ。

他人が理解してくれるということ、最悪の状態でも美しいものを念じて立ち向かうこと、こんなところがテーマだろう。いや、他人に理解して欲しいと願うわけではなく、あるがままに受け入れてくれることがうれしいのだ。足踏みし、うずくまるのではなく、前を見て歩いていくのだ。遠くにあっても、方向は違っても、並んで歩いてくれるのがうれしいのだ。喜んでもらえるのではと思うことの何と幸せなことか。さらに、きっと喜んでもらえると思っても良いならば、そんなに幸せなことがあろうか。よしんばそれが勘違いであったとしても。
立ち向かい続けなければならないということ、これはこれで疲れてしまうし、自分は立ち向かわないし、自分が理解して欲しいと願うことは醜悪だと思うのだけれども、優秀な人はそう思っても良いと思う。優秀な人とは、強い人で、やさしい人のことだ。
強い人とは、一人で歩いていく決意を持っている人のことだ。物理的に一人であることや、群れていることは関係ない。一人でいても依存心の強い人はいる。依存心の強い人は周りを不快にするだろう。群れていても、一人で歩いていく決意を持った人はいる。決意を持った人は、周りに手を差し伸べられるだろう。だから、むしろ、人と一緒にいることの方が多いのかもしれない。強い人は優しい人だ。
優しい人は、親切ではないかもしれないし、同情してくれないかもしれない。でも、心配してくれるだろうし、あなたに大事なものならば大事にするだろうし、あなたが決意したことなら尊重するだろう。何もしてくれないかもしれないけれども、あなたの話を聞いてくれるだろう。あなたに良いことなら喜ぶだろうし、あなたが眉を曇らせれば悲しむだろう。あなたが自分を大事にすれば喜ぶだろうし、ぞんざいにすれば悲しむだろう。

美しいものは美しくあり、優秀な人は幸せであってほしい。感受性が豊かであることは、とてもよいことだし、大事にして欲しいし、自分がそれを損なう側には回りたくない。
この本に登場するのは、そんな、強くて優しくて美しくて感じやすい人たちだ。
心穏やかに暮らしたい。それよりも目もくらむような幸せを感じたい。今がどんなに悪くても、これからも何度も最悪になるかもしれないけれども、より良くありたいし、幸せを感じたいし、美しいものを見たい。そんなあなたは正しく美しいと思う。そんなあなたが笑っているのを見たいと思う。
祈りたくなることはある。美しいものを念じて。神はいないと念じて祈るのだ。星に向かって、木々に向かって、森に向かって、花に向かって、鳥に向かって、風に向かって、月に向かって、空に向かって、夜に向かって。
私も、バナナの絵が描いてある、きれいなグラスをあげたくなりました。
でも祈るまい。誰にも何もあげまい。それは望めまい。許されまい。許すまい。
2005/01/22
川の岸辺に生え出でたあの草の葉は
美女の唇から芽を吹いた溜め息か。
一茎の草でも蔑んで踏んではならぬ、
そのかみの乙女の身から咲いた花。
ルバイヤート
J.D.サリンジャー著 村上春樹訳、白水社
白水社の新書版を最後に読んだのは何年前だろう。ホールデン・コールフィールド。嫌いな人は嫌いだろうよ。特に女の人はね。でも、グッと来ちゃうんだな。なんでだろう、彼が妹のフィービーと話しているところとか、アントリーニ先生がジェームズ・キャッスルにジャケットを脱ぎ掛けて抱き上げるところを思い出したりとか、アーニーのグラブとか、そういうところで参ってしまう。サリンジャーはサルトルの嘔吐なんかをフィーチャーするつもりだったんだろうか。何でこれが青春小説って呼ばれるんだろう。ホールデンが未熟だからだろうか?じゃあ、成熟した大人って何なんだろうか?あなたは、立派で、成熟した、大人なんだろうか?四十にして惑わず?はははのは。自分の顔に責任を持てってさ。なんとも云えないわびしい気持ちになってしまうことじゃないか。
前のツートンの新書版の『ライ麦畑で捕まえて』の細部を憶えていれば、村上春樹訳はここが良いとか、ここが鼻に付くとか、云えるんだろうけれども、そんなことはどうでも良いことだと思う。村上春樹の訳は、それなりになかなかいかしていて、サリンジャーのライ麦とかホールデン・コールフィールドとか、やっぱりかなり良いんだよ。村上春樹の中で、結構かなり、ノスタルジックな思い入れがあるようで、一昔前の言葉遣いを多用しているようだけれども、そんなことは読む方にはどうでも良いことだよね。
チラッと思ったのは、現代の枕草子か徒然草ってこと。趣味の善し悪しって言うか、ゲッときちゃうところなんかは枕草子。徒然草ってのは、まあ、読めば分かるよ。とにかく、嘔吐、枕草子、徒然草のサリンジャー版ってこと。そして彼はなかなかだ。久しぶりにもうちょっとがんばろうという気持ちになった。ただ、問題は、1945年初版ってこと。これが50年以上過去のことなのか。今は?小沢健二なんか良い線行っていたと思うんだけどね。
2003/07/12
知は酒盃をほめたたえてやまず、
愛は百度もその額に口付ける。
だのに無情の陶器師(すえし)は自らの手で焼いた
妙なる器を再び地上に投げつける。
ルバイヤート
ヴェルコール著、河野与一, 加藤周一訳、岩波文庫 赤565-1
この本をどう表現しようか、非常に悩む。静謐で美しくて悲しい。
舞台は第二次大戦時、ドイツ占領下のフランス。戦争ものではない。描かれているのは人間である。優しく愛しい人間。裏切られる善意、暗殺される愛。醜い世界と抵抗する人。
このままではいけない。あなたは何を見ているのか。あなたは何を求めているのか。世界は美しいのか?
Apr./27/2003
エデンの園が天女の顔で楽しいなら、
おれの心は葡萄の液で楽しいのだ。
現物をとれ、あの世の約束に手を出すな、
遠くきく太鼓はすべて音が良いのだ。
ルバイヤート
ミルトン著、平井正穂訳、岩波文庫 赤206-2, 206-3
J. ミルトン (John Milton: 1608-1674) の "Paradise Lost" (1667) の邦訳。訳文も素晴らしく、ギュスターブ・ドレ (Gustave Doré 1832-83) のエッチングがとても合っている。黒い光。
宗教的であるとはどういうことだろうか。ウンザリすることから逃げることではないだろう。でも、その実相は自分には分からない。逃げたくなることはしばしばで、できれば外に出たくはないのだが、メシもくわにゃならない、そういうわけで、自分のそういうところは目を瞑って、髪振り乱し、前しか見ない、いや、何も見ないでうずくまるがごとくに日々過ごしているわけだ。
しかし、そうやっていても、自分の中でだんだんと、なにかが溜まっていく。溜まって凝ったなにかは、ストレスとか呼ぶのかもね。タバコとアルコールで溶かし出せればよいものの、何もかも嫌にもなる。
そんなとき、月を見たり星を見たり、夜の空気を浴びたりして、美しいものに触れた気になって救われたような勘違いをしてみたり。というわけで、元気になると思うのだ。常軌を逸したところには真実が宿る。出鱈目、無茶苦茶、傍若無人であること、救われないこと、赦されることに深く憧れたりする。
本書の内容は、サタンの堕天と闘争・・・ではなく、罪と赦しです。己の中の地獄の意識に懊悩するサタンと、後をなぞるように罪を犯すアダムとイブ。断固として罪を犯し悔いることのないサタンと、そそのかされて罪を犯しつつも悔い改める人間。「サタン」とは「敵」という意味だそうで。
嫉妬と罪。希望と絶望、憤怒と敗北、絶対的な罪と絶対的な許し。強力に宗教的で、同時に人間的です。1667年?ウソみたいです。ガリレイとの面会、存命中のシェークスピアの芝居、エリザベス女王没後の清教徒革命のイギリスを生きた筆者が、失明後、口述筆記の形で著したものだそうです。たまたま掛かっているショパン、ピアノ協奏曲第一番と非常に良く合います。人間って単純ですね。美しい人生を夢見て、無能と恥辱、罪の汚泥にまみれる。苦しみ、怒り、絶望、その繰り返し。
マクベスもサタンも同じ。自分はそっちの側に立ちたい。絶望は愚か者の結論。罪も望みも自分で決めた以外には認めない。だから、主や御子が登場すると、とたんに退屈だ。勝手なことほざきやがって腹が立つ。お前らがのさばっている天国なんざ、ぜってー行かねー。そして、罪は確かにある。赦しも救いもまた与えないのは自分に対してであって、もらいたくなんかない。そして、誰もくれることはない。横車でもなんでも押し通してバイバイできればそれで勝ち。あとは野となれ山となれだ。
主よ、最善の道をお示しください、それに耐えられる強さをください。
Jan./4th/2003
酒のもう、天日はわれらを滅ぼす、
君やわれの魂を奪う。
草の上に坐って耀う酒をのもう、
どうせ土になったらあまたの草が生える!
ルバイヤート
ちくま文庫 1986/6/24th 第1刷発行 \990-
詩歌集。私の好きな詩を引用する:(「アメニモマケズ手帳」より)
月天子
私はこどものときから
いろいろな雑誌や新聞で
幾つもの月の写真を見た
その表面はでこぼこの火口で覆はれ
またそこに日が射してゐるのもはっきり見た
後そこが大へんつめたいこと
空気のないことなども習った
また私は三度かそれの蝕を見た
地球の影がそこに映って
滑り去るのをはっきり見た
次にはそれがたぶん地球をはなれたもので
最後に稲作の気候のことで知り合ひになった
盛岡測候所の私の友だちは
――ミリ径の小さな望遠鏡で
その天体を見せてくれた
亦その軌道や運転が
簡単な公式に従ふことを教えてくれた
しかもおお
わたくしがその天体を月天子と称しうやまうことに
遂に何等の障りもない
もしそれ人とは人のからだのことであると
さういふならば誤りであるやうに
さりとて人は
からだと心であるといふならば
これも誤りであるやうに
さりとて人は心であるといふならば
また誤りであるやうに
しかればわたくしが月を月天子と称するとも
これは単なる擬人ではない
「もしそれ人とは……」のくだりがとても好き。月が物理法則に従う物体であることを十分に了解しながらも尚月天子と称することに何らの障りも無い。このような健全な精神をどうやったら養えるのだろう。
在るもの在らぬもの、凡そ一切、在るが如くに在り、無きが如くに無い。人も同じ筈。なんでそう接することができないのか。能には「離見の見」という概念があるそうだ。演者が舞を内面化したり陶酔してはならず、舞う自分を客観視する境地だそうだ。在るがままを受け入れる境地?存在に対する誠実な畏敬を。自然/物には簡単だ。人には?全身全霊をかけて、相手の内面を察しよう、慮ろうとすることかしらん。一対一ならできそうだ。世界が自分を愛しているという思い上がりが邪魔をするのか。
わたくしがその天体を月天子と称しうやまうことに遂に何等の障りもない
。そう、何等の障りもある筈がない。過剰な自意識が何処に向かうのかで変わるんだろう。
Dec./5ht/2001
まかせぬものは昼と命の短さ、
まかせぬものに心を寄せるな。
われも君も、人の掌の中の蝋に似て、
思いのままに弄ばれるばかりだ。
ルバイヤート
オスカー・ワイルド著、福田恒存訳、岩波文庫 赤245-2
ワイルド (Oscar Wilde: 1854~1900) 作品の美しさ、訳文の素晴らしさもさることながら、ビアズレー (Aubrey Beardsley: 1872~1898) の挿絵が素晴らしい。関係ないけど、ギュスターヴ・モロー (Gustave Moreau:1826~1898) の「サロメ」も見ておかなきゃ。
新約聖書の預言者ヨハネとサロメの物語はご存知ですかね。知っているあなた、ラッキーです。是非読んでみてください。この本はその物語に題を取った戯曲ですが、台詞回しの美しさ、カッコよさといったらもう、たまりませんわ!
「あとがき」によれば、ワイルドは反俗的芸術至上主義運動の中心だったそうで。例えば、「ドリアングレイの肖像」(岩波文庫)ではその芸術論が読める。この本、ワイルドの唯一の長編らしいのですが、前半は物凄く素晴らしい。ワイルドは、耽美、官能、反俗、芸術至上主義が全面に現れていて、好きな人にはたまらない作品です。
こういう本だけに囲まれていたい。自分で死ぬガッツも無いし、むしろ僭越な気さえする。死ぬまで、転がり落ちるように、人の目を掠めて生きたい。自分の「人生」とやらは失敗だったと確信する。少しでも巻き込んだ人、ゴメン。なんて思っているあなた、分かってますよね?自己防衛の諦めだって。いつだって、誠実であろうと希求しているはず。
Dec./2nd/2001
この壺も、おれと同じ、人を恋う嘆きの姿、
黒髪に身を捕われの境涯か。
この壺に手がある、これこそはいつの日か
よき人の肩にかかった腕なのだ。
ルバイヤート
脚本/監督/音楽、主演ヴィンセント・ギャロ、クリスチーナ・リッチ、1998米
何もかも上手く出来ないダメなビリー・ブラウン (Vincent Gallo) とそれに巻き込まれるレイラ (Christina Ricci) の物語。「幸せ」ってなんだか胡散臭い言葉だけど、こういうことだよね。
人生はガッツとファイトとヤセ我慢。それでもダメなものはダメなんだから、こんな物語があっても良い。「不幸」なんて、かっこ悪くて情けなくって、喜劇的なものだけど、そこから抜け出せないときに感じるあの閉塞感。
ひとから見れば他愛無いことでも、本当にどうしようもなくて情けなくてなんだか泣けてくるときもある。冬の曇り空を見上げれば泣きたくなるし、春の新緑が日に透けていれば死にたくなるし、夏のギラギラ照りつける太陽に群緑の葉が照り返せば刺されるのを夢想するし、秋の黄昏に公孫樹が染まっていれば消えたくなる。
でも、けっこうあっけなく救われることもある。とは言っても、「あっけない」なんてことはなくって、レイラの果たす役割はビリーにとっては何にも代えがたい、ほんとうに貴重なものだ。実は誰にとってもそうなはずで、渇望しているのではないか。方向を見失った愛情の受け入れられる先。
まあ、なにはともあれ、プロットの展開はセオリーに忠実だし、表現方法もギャロもカッコイイし、クリスチーナ・リッチは可愛いし、素晴らしい映画だ。
ここからネタバレ。要注意。
ダメになっているときは本当に何もかもダメで。自己防衛のため、プライドの鎧でグニャグニャの自分の輪郭を保持する為に人には攻撃的になるし、嫌われたいわけではないから好かれたいとしたことでも引き攣ったことにしかならなし、醜いものだから、醜いものを引き寄せてしまう。だからビリーも最後に、醜い男の汚いストリップ小屋で自分の最悪に醜い様を夢想する。それを引き止めたのはレイラだ。
レイラに珈琲を買って行ってあげることを思い出したときに、ハイになって珈琲を買ってあげるとき、どれほどか幸せだったか。甘い甘いドーナッツとハート型のクッキーを買っていってあげれば喜んでもらえるのではと思うことの何と幸せなことか。さらに、きっと喜んでもらえると思っても良いならば、そんなに幸せなことがあろうか。
人生はガッツとファイトとヤセ我慢。
ビリーはラッキーだった。俺は?ホールデン・コールフィールドに! J.D.サリンジャーに!リア王の呪詛とマクベスの破滅に!
監督ワリス・フセイン、主演マーク・レスター(当時13歳)、トレーシー・ハイド(当時11歳)、ジャック・ワイルド、1971英
古い名作にありがちな、共感できない辛気臭さは俺にとっては無かった。
物凄く泣ける。エンディングで結婚式を挙げてトロッコに乗って去る辺り、どうしようもなく泣けてくる。何で泣けるんですかね。ものすごく幸せなシーンだ。究極まで純粋であることへの渇望、孤独のやるせなさだと思う、多分。ビージーズの挿入歌も良い。世間では、こんな感じ方をする映画じゃないらしいが。
監督パーシー・アドロン、主演マリアンネ・ゼーゲブレヒト、ジャック・パランス 1988独
挿入歌、コーリング・ユー、乾いた砂漠が語りかけてくるようだ。登場人物がみんな、凄く優しい。ハリネズミのジレンマ。お互い不器用で、傷付いても、相手を気遣ってナンデモナイと無理する。自分のルートを喪失した人たちが、漂いながらも不器用に関係を繋いでいこうともがいている。
随所に挿入される「シンボル」が痛々しい。良い映画だ。最後の方でバタバタと展開していく感じがあるが、前半部分でもう十分。本気で作ったと言う感じがする良い映画だ。
Calling You
(Bob Telson)
** a desert road from vegas to nowhere
someplace better than where you've been
a coffee machine that needs some fixing
in a little café just around the bend
* i'm calling you
can't you hear me
i am calling you
a hot dry wind blows right through me
the baby's crying and I can't sleep
but we both know a change is coming
coming closer, sweet people
*' i'm calling you
and don't you hear me
i am calling you
*' (repeat)
** (repeat)
a hot dry wind blows right through me
the baby's crying and I can't sleep
i can't feel a change is coming
coming closer, sweet people
* (repeat)
Uhm.... (scat)
このようにエゴと無縁の優しい情景を見るとどうしようもなくなる。
監督パトリス・ルコント、主演ジャン・ロシュフォール、ジェラール・ジュニョー、1987仏
超カッコイイ。
監督パトリス・ルコント、主演ジャン・ロシュフォール、アンナ・ガリエナ、1990仏
これも焦燥感を掻き立てる。とてもとても美しい。
監督マーク・ハーマン、主演ピート・ポスルスウェイト、ユアン・マクレガー 、1996英
誇りとは何か。パンと肉のみによってでも購わざるを得ないものは何か。
監督ヴィム・ヴェンダース、主演ブルーノ・ガンツ / ソルベイグ・ドマルタン 、1987独仏
アクチュアルであることは誠実であること。逆もまた。
世界には美しい映画が溢れている。
いつまで一生をうぬぼれておれよう、
有る無しの議論になどふけっておれよう?
酒を飲め、こう悲しみの多い人生は
眠るか酔うかしてすごしたがよかろう!
ルバイヤート