Michael Polanyi

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ポラニー (Michael Polanyi, 1891-1976) はハンガリー出身でイギリスに渡り、物理化学の教授を務めた後、哲学/社会学に転向した。"Personal Knowledge" (1968), "Tacit Dimension" (1966) を主著として、従来の実証主義的、経験主義的科学論に対抗して、個人と組織における知的生産活動として研究活動をとらえた。

暗黙知の次元

M・ポラニー著、佐藤敬三訳、伊藤俊太郎序、紀伊国屋書店
1980年 8月初版発行 ¥1456-
ISBN4-314-00301-4
原著: The Tacit Dimension, Routledge & Kegan Paul, London, 1966.

暗黙知とはなにか

暗黙知とは、全体と部分に関する認識の問題から出発した概念であり、語ることのできるものより多くの事物を知ることができるという言明の表現でした。

一般に、意味として認識されるのは全体であり、部分はそのなかで埋もれて、明確に言語化されることはありません。例えば、人の顔の場合、全体としての特徴をすぐさま把握して、他の人と区別したり、機嫌や健康状態などまで推し量ることができます。しかし、当然知覚しているはずの、目、小鼻、髪型や、しぐさ、表情などの細部については、明確に思い出すことは難しい。この細部と全体の包括としての知が暗黙知です。

暗黙知という行為は、常に二項からなっており、それらを近接項と遠隔項と呼ぶことにしましょう。そして、これらの関係は、四つの構造を持ちます:

機能的構造
近接項について知るのは、遠隔項を知りたいがゆえである。つまり、全体の意味は細部に対して感知していることに依拠している。全体に注目するために、細部から注目しているがゆえに、細部を感知する。
現象的構造
近接項は遠隔項の内部のものとして感知している。つまり、分析された細部を足し合わせて全体を把握しているのではない。細部は全体に内包されるものとしてしか知覚されない。
意味論的側面
意味は、知覚者から離れていく方向へ成熟していく。つまり、細部が自覚的に把握されているうちは、全体に関する知見は得られない。細部の持つ意味が脱離して初めて全体の意味が把握される。
存在論的側面
全体は部分の集合ではない。つまり、暗黙知とは、近接項と遠隔項の間で、意味を伴った関係を打ち立てて、包括的な存在を全体的まとまりとしてとらえる、能動的な活動のことである。

知覚における注目という行為は、近接項から遠隔項へと移っていくものです。ここでは、近接項と遠隔項を、身体から離れた対象として説明しましたが、暗黙知における二項目を、ポラニーは、生理学やゲシュタルト心理学に依拠しながら、身体と外界という側面で捕らえています。一方、近接項として機能させるためには、それを身体内部に包含するように、内面化されるように、身体の概念が拡大しているのだと考えるのです。これは、感情移入や潜入という言葉で表現されます。

暗黙知の勘所

上では、暗黙知に関する解剖学的分析を紹介しましたが、全体を通して見た暗黙知とは、極めて日常的な観念です。

暗黙知とは、無意味な要素と、意味を持った全体との関係を通して、世界を理解する活動を指します。包括的存在と表現されていることは、関係性の中で事物を把握する認識論、今で言うところの、構造主義的認識論に他なりません。ここには、ソシュールの記号論的言語学や、レヴィ=ストロースらの文化人類学、神話学などの影響が見て取れます。もちろん、19世紀後半に爆発的に発展したゲシュタルト心理学(実験心理学)、生理学らの所見も直接的に引用されています。

ポラニーの文脈に依拠すれば、意味を持った知を構成する要素に注目して解剖学的に分析しても、死体の腑分けにしかならず、生きた知にはならないということです。百足の踊りの例えにもあるように、詩学、音韻論は詩の魂を伝えず、音楽理論は歌を奏でず、演劇理論は人の心を打たないのです。

一時的に、統合を離れた要素に対する分析が、全体に対する、より高度な知見へと導くこともあります。要素とそれらの間の関係を詳細に分析することで、全体に対する、より深い理解が得られるでしょう。また、運指の訓練を積み音楽理論に通暁することで、より Swingy なプレイができることもあるでしょう。また、古今東西の文芸を詳らかにすることで、より魂を揺さぶる業が成し遂げられるかもしれません。それでも、暗黙知という枠組みの中での認知行動の重要性が貶められるわけではありません。

科学と暗黙知

科学的研究活動は、客観的真理の探究として表現されることが多かったのですが、暗黙知の枠組みはここでも本質的なあり方であるととかれます。

まず、理論と現象について。認識主体に依存しない知覚/認識ということはありえません。特定の理論の枠組みの中で世界を認識するには、理論が言明している事柄を内面化しなければなりません。例えば、方程式は一つの真理であっても、理論の枠組みの中で、繰り返し運用して、結果を内面的に、肝に銘じて得心しなければ、新しい現象に関して適用できないわけです。個々の言明は死体の臓腑に過ぎません。これを生きたダイナミズムとしているのは、認識主体によって積極的に行われる統合、つまり暗黙知という枠組みなのです。

次に、問題と解決について。科学理論は、その生産性の高さによって、有効性が測られます。

Feb./03th/2003


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