<<2006- | Since: 2007-01-01
I want you like the roses Want the rain You know I need you Like a poet needs the pain
少女小説。センスのよさに好感が持てる。この点、同時代の『キッチン』(吉本バナナ)より好印象かもしれない。『キッチン』の方が強烈な印象だったけど。
続編は『彼女(たち)について私の知っている二、三の事柄』。これも読むと思う。とても著作の多い人らしいが、地の文にちりばめられた、映画や小説のタイトルから、かなり本気の人だということが伺われる。その点、負けん気が刺激されるのは若気の至り。もう若いとは云えないけど。
ラノベ。嫌いなわけじゃない。『MISSING』より長めの中篇四話。
「ツトム。すらっと背が高くて、育ちのいいハムスターみたいな顔をした男の子」
「覚えていませんね」
「ほら、いつもゼミのとき、教室の片隅で便秘気味のパリサイ派みたいな顔で座っている」
お通じに悩む厳格なユダヤ教徒みたいな顔をした育ちのいいハムスター。
私の想像力を超えていた。
「いたかもしれませんね」と私は面倒臭くなって妥協した。
ラノベ。嫌いなわけじゃない。ミステリ仕立ての味付け。上手いと思うけど、きれいに料理されすぎで反感を持つ。なんでだろう?面白いだけの本だって嫌いじゃない。シニカル、ユーモア、ペーソス。それらが上手くちりばめられていて上手いと思う。でも、浮ついていて、なんかずるいと思う。デリカシーがないというか、ずうずうしいというか、信用できないというか。
読みやすいけど、なんか嫌い。
相変わらずの土屋教授。おもしろい。
圧倒的。
収録作は『りかさん』と『ミケルの庭』。
こういう本を書く人は、魂を削っていると思う。己の存在を掛けて書ける人がいると思う。西原理恵子、川原泉。梨木 香歩もそうだと思う。
梨木 香歩の最初の一冊といえば、『西の魔女が死んだ』か『裏庭』を勧める。魔女の出てくる本が好きなのだ。でも、この本のほうが濃度は高いと思う。どうだろうね。この本が好きになってくれそうな人、好きになってほしい人には、この本を薦めたいけど、順を追って欲しいと思うと、『西の魔女が死んだ』から勧めるかもしれない。
この本はすばらしい。すごい本の一冊だ。著者である梨木 香歩さんは魂を削っていると思う。根底から湧き上がる根本であり至高である。人の中の最善のもの。梨木 香歩さんの見る世界の美しさを表現者として、つぶさに見せてくれるもの。
小さい頃、絵画を見て、こんなに美しいものがあるかと思った。エル・グレコの聖女。小さい頃、歌を聞いて、こんなに美しいものがあるのかと思った。白鳥恵美子のアメージング・グレイス。
世界は美しいものであふれている。自分が遠く離れてしまっただけ。本書にある悲しみは、それを知らないからではなく、其れを知る故。あるのに、手が届かない、今、現として、ない。でも、ないのではなく、手が届かないだけ。俺には手が届かない。自ら離れていくだけだ。神などいない。でも、あなたにはあるはずで、そのいる場所は美しいはずで、いくらでも美しかろう。
本書はとても美しい。それを審らかに洗い出し、創作として再構成した胆力に尊敬の念を禁じ得ない。分析などしたくないであろうに。全体として完璧であったものを、分解して再構成するなど、望みはしないであろうに。全き美であれば、没入しておればいいのであって、感じればよいのに。創作者の業なんだろうか。だから、魂を削ったろうと思う。
これを書いた人は救われよと思う。何によってか。己によってしかないのだけれども。我は我。己の主は己しかいない。我は我。貧しいかもしれないが、その世界が美しいものであれば、言祝げ。言祝ぐ。俺が言祝いだところで、それには、何ほどの意味もなくても。幸せであれ。そばに好きな人が居ると良いと思う。複数形でも、単数形でも。
人生は虚しい ちょっぴり、恋と ちょっぴり、憎しみと そして、おはよう 人生は短い ちょっぴり、希望と ちょっぴり、夢と そして、おやすみ
2007年の本を選べば、本書は圧倒的だった。幸せであれかし、好きな人と居れかし、笑いの絶えない毎日でありますように。
La Femme et le Pantin, 1898.
ファム・ファタール(Femme fatale)。生田耕作の思い入れのある本らしい。面白かった。アベ・プレヴォーの『マノン・レスコー』(1731)を思い出した。古いフランス小説って、ときどきすごく面白い。
The October Country, 1955.
レイ・ブラッドベリの初短編集。玉石混交だけど、初期のブラッドベリの短編を読むという興味には十分応えてくれる。ブラッドベリの最善の一つというわけではないけど、短編の質もけっして低くはない。こないだ読んだスタージョンの短編集についても云える事だけど、だから、SFは千冊読めといわれるんだなぁと思う。
L'emploi du temps, 1956.
とにかく読みにくい。フランス語のだらだら続く文体を日本語に写し取ったつもりだと思うけど、読点(、)で文を終わらせて次の文が始まるのは、ただの悪文だと思う。
それに、内容についても、決してほめられない。これを読んだとき、自分のテンションは最悪だった。今でも決して良くはないけど、まあ、数年来、イライラと不満をかこってきた中で読むと、天気が悪いくらいでグダグダと。そんなことより、自分の気分の方がよっぽど靄に包まれて黒い。要は、不満を外のせいにして、言い訳がましいというか、情けないというか。それにこいつの気持ちの流れは都合よすぎで軽薄すぎ。呪詛を書き連ねるというと、『夜の果てへの旅』(セリーヌ)の方が好ましい。こんなの呪詛じゃない。ただの言い訳と甘えだ。
能天気な主人のウースターと、笑えるほど有能だけどSっ気のある従僕のジーヴズ。ユーモア小説。知恵者のジーヴズが解決するのは、主人やその友人が陥る、間抜けな日常なんだけど、名探偵に数えられることもある。ウッドハウスはクリスティと同時代の人。書いているのも、19世紀末から20世紀初頭のイギリス上流階級の生活。
最高。面白い。これは安心して勧められる。
このシリーズ(P・G・ウッドハウス選集)は全3巻らしい。ジーヴズもの(11長編34短編)がもっと読みたい場合は、国書刊行会のウッドハウス・コレクションを読む必要があるらしい。幅広く読める選集なりのよさもあると思うけど、ジーヴズものに限れば、最初から国書刊行会のもので読むのがいいかもしれない。
更に贅沢を言うが、こういう本は文庫がいい。リンク先はハードカバー。
Indiana, Indiana: (The Dark and Lovely Portions of the Night), 2003.
とても美しい。
良いものだけを、美しいものだけを心に念じて静かに生きたい。それは無理だし、誠実でもない。俺の場合は。
リンク先はハードカバー。
とても美しい本。はまる人はきっとものすごくはまると思う。英語が堪能であれば英語で読むべき甲斐のある本と思う。
シオドア・スタージョンといえば、『夢みる宝石』(1950)、『人間以上』(1953)で有名なSF作家。『夢見る宝石』を読んだのはもうずいぶん昔のことになってしまったけれども、ぶっ飛ばされた。
スタージョンの短編を集めた『不思議のひと触れ』。河出が奇想コレクションの一冊として、絶版の短編をあちこちから集めたものらしい。ソフトカバーだけどハードカバー並みのサイズ。SFは文庫本に限ると思うんだけど。
軽くて読みやすい短編集。絶品ではないと思うけど、スタージョンじゃなければ、こいつはすごいやつだと思ったと思う。そんくらいにはすごい。惜しむらくは、訳が分かりにくい箇所がちらほら。状況描写について、直接書かないでニュアンスで伝えているような箇所を日本語で表現できていないんじゃないかと思う。
『雷と薔薇』(1947)、『タンディの物語』(1961)。ほかもいい。『渚にて―人類最後の日 』(1957)より10年早いんだな。『雷と薔薇』はすごい。
Thomasina, 1957.
愛らしい本。
舞台はスコットランドの片田舎インヴァレノック。主人公は赤毛の怒れる獣医マクデューイ氏。彼が溺愛する幼い娘のメアリ・ルーとその愛猫トマシーナ。彼は妻に先立たれ、望まぬ職業に就きながら、ペットを嫌い、愚かな飼い主を嫌い、メアリ・ルーに最後の愛情を注ぐ。そして、森に住む「赤毛の魔女」こと「いかれたローリ」。
経験上、魔女の出てくる本は面白い。本書は思ったような魔女じゃなかったけれども、優れた本だと思う。おもしろかったといってもいい。
ある日トマシーナが怪我で体が動かなくなってしまう。メアリ・ルーが治してくれと連れてきたトマシーナを、ペット嫌いのマクデューイ氏はあっさり見放し安楽死させてしまう。メアリ・ルーは父の次に愛していたトマシーナを失い、それを殺した父に裏切られたと感じ、最愛の父を心の中で殺して世界を拒否して、ゆっくりと死んでいく。
絶望してゆっくりと死んでいくメアリ・ルーに困惑するマクデューイ氏は、森の魔女との交流の中で癒されていき、最後にはメアリ・ルーも癒される。
童話でご都合主義なんだけれども、筆致は冷静でうまい。15章がよい。
マクデューイ氏はたじろぎ、まじまじとローリを見つめた。「ええ?どうしてそんなことがわかる?」それから、そっけなくつけくわえた。「ぼくは神など信じてはいない」
「そんなこと、どっちでもいいわ。神さまはあなたを信じていらっしゃるもの。そうでなかったら、あなたをここへお遣わしにはならなかったはず」ローリは信頼のこもった目でこちらの目をのぞきこみ、穏やかながら謎めいた、いたずらっぽくさえある笑みを口元にひらめかせる。その笑みにまっすぐ胸をつらぬかれたマクデューイ氏は、奇妙にも心をひどく揺すぶられ、どうにもわけがわからないまま涙までこぼしそうになって、動揺しながらも呆然とローリを見つめた・・・・・・
わけがわからなくなどない。この悲しみを知る人と知らない人がいるだろうと思う。
停めてあったジープに乗りこむと、隣の席にスカーフを置く。それから、ふともう一度手にとって、それを首に巻いてみた。優しくそっと触れられているような、柔らかで温かい肌ざわり。またしても、耐えられないほどの悲しみが胸のうちにこみあげてくる。家めざして車を走らせながらも、マクデューイ氏はその悲しみを振りはらうことはできなかった。
15章は非常に良いと思う。マクデューイ氏の病も、その癒され方も、筋道だっており、非常に納得のいくものだ。
ローリは叫んだ。「だめよ、そんなの、だめ。すばらしい腕だからこそ、あなたはここに遣わされたのよ。」
全幅の信頼。そんなの、だめ。そう云ってもらいたかったと思う。が、それは望みすぎというものだ。人に頼ってはいけない。信頼はそんなに安くない。
幼い子が心を痛めてゆっくりと死んでいくのを読むのはつらいが、本書はご都合主義的だ。途中は重苦しいが、それも最後のカタルシスの前触れであり、申し分のない大団円。これを都合が良すぎると思うのは、ひねこびすぎだろうか。例えば、一度失われた信頼が回復するようなことはありうるだろうか。
本を読むのに自分を投影しすぎるのかもしれない。それは貧しい読書だと思う。でも、どうしてもそうとしか読めない。そこで、人を必要とするんだな。メアリ・ルーは心を凍らせたままでは生きていかれなかったんだな。どうすればいいいんだろう。
昔は美しいものを信じていた。真実を信じていた。天然の造形は美しい。芸術家の抉り出す真実は究極を志向し、数学を含む自然科学は誠実だった。いまでもそう思う。美しいものはある。でも、俺が前とはもう違う。もう若くはない。真実はあるのであるけれども、俺がそれから隔たってしまったということ。真実がないが故ではない。真実はある。その中心に到達できないまでも、漸近することも出来る。俺が遠く隔たってしまっただけだ。俺がその価値を持たないだけで。美しいものはある。あるということは圧倒的で、間違いない。
何か出来ることはあるだろうか。なにもない。俺は役にはたてないんだろうか。できることはなにかないんだろうか。せめて祝福することは出来ないだろうか。それも出来ないのであれば、何の真実もないのであれば、迷惑でしかないのであれば、いっそ殺せ。その後の世界はきっと相変わらず美しいことであろうから。
本書の神様の処理は好ましい。
Siddhartha, 1922.
『荒野のおおかみ』を読もうと思ったんだけど、隣に積んであった本書、読んだはずだが内容をころりと忘れていたので再読。
舞台は古代インド、主人公、シッダールタはバラモンの王子。彼が父の許を出奔し、悟りに到達するまでを描く。途中、正等覚者としての仏陀とも交わる。本書の主人公、シッダールタは、シャカムニ・ブッダとしてのゴータマ・シッダールタとは別の人。
ヘッセの狙いは、悟りの教えを思想として書くことではなく、悟りへ至る道程を個人的体験として再現することであったようだから、本書のシッダールタは、完成された人として登場する仏陀とは別の人でありながら、同一なのだろう。
読んでいて思い出した。初読のときは、よく勉強しているなぁと思った。日本人としての私は、それほどコアに仏教思想を勉強したわけではないのだけれども、無常観とか諸行無常、諸法無我、縁起の法などは、教養として知っている。アートマン、ブラフマン、梵我一如なんかは倫理で習った。まあ、そんな話が第一部。
シッダールタは若くしてバラモンの教えを究め、出奔して沙門(苦行者)となって肉体の奥義を究め、仏陀に会って、完成された人を知る。そして、それらの教えを退け、自らの道の探求へ歩みだす。ここまでが第一部。諸法空相、殺仏殺祖(仏に会っては仏を殺せ、仏祖に会っては仏祖を殺せ)ということか。別れ際に仏陀が、この教えは悟りへ至るための方便であってそれ以外の何ものでもないことを云う。たしか、仏典に、悟りへ至るための梯子であって、一旦至らば梯子を棄てよというものがあったと思う。あれは、なんだったか。
そういうわけで、西洋人のヘッセがよく勉強してるなあと思った。諸行無常に永遠を対置するのではなく、時間を滅却することに至るのがすごいと思った。こんな感想ならまたすぐころりと忘れる。
今回読み直して、引っかかったのは、次の二つ。
本書の主人公、シッダールタは、ブッダの許を去って我を知ろう、裸の存在そのものに直面しようとして、遊女としての道を究めたカマーラの愛人になる。その許を去り、かっての教えを棄て、商人としての蓄財を棄て、中年になり全てをなくして呆然とする。本書ではオーム(5U)の聖音に統一を回復するのだけれども、全てを失ったまったく無価値な状態、にしびれた。今、そう。まったく価値がない。残念だが。ちくしょう。
もう一つ、シッダールタはカマーラとの間に子をもうける。その子との愛別離苦が煩悩の一つとして、愛すべきものとしてえがかれる。子というのは特別なものなのかもしれないと薄ぼんやりと思う。これは終に知ることはなさそうだ。
『知と愛』に先立って、ヘッセが統一の思想を回復せんと試みた試作と思う。そして、本書の悟りはイージーだと思う。でも、「ものそれ自体、現実自身に直面しよう、思想の膜で隔てたものではなしに。」という着想は全面的に肯んじ得るものだ。あるいは、そのとき、その人が大事にしている思想だって大事に出来るかもしれない。でも、俺には大事にするものがない。非常に残念なことだ。
我は我。それが貧しさの源なのは分かっているが、もう改めるには遅すぎる。好きなものは好きで嫌いなものは嫌い。それが貧しさの源であるのは分かっているし、憎々しくもあるんだけど、改めようとは思わない。かといって、和解も出来ない。腐れ縁ってやつか。違うか。よく分からん。
ちなみに、ヘッセ、あんまり好きじゃない。
Narziss und Goldmund, 1930.
ナルチスとゴルトムントの物語。とても読むのが辛かった。訳はうまくて読みやすい。『荒野のおおかみ 』("Der Steppenwolf", 1927)を再読してみようと思った。
舞台は修道院から始まる。テーマは、知性と感性、聖と俗、精神と肉体、思想と感情、知と愛。前者が謹厳な知の人ナルチス、後者が放埓な愛の人ゴルトムント。修道院の学校に預けられたゴルトムントは、見習い僧だったナルチスにあこがれ、僧職を志すが、ナルチスに導かれてやがて修道院を出奔して放浪に出る。
ナルチスの精神によってゴルトムントは自身の感性の豊穣さに目を開くこととなり、放浪に出て、その後も永遠と刹那、聖と俗が対置されるのだけれども、前者が後者に優越するわけではない。放浪の中で、後者の豊穣が前者に優越し、やがて修道院に戻ったゴルトムントとナルチスが再会して融和が模索される。
ゴルトムントの放浪譚の中では、さまざまな喪失が描かれる。例えば、ゴルトムントが修道院を出奔するときの記述はこうだ。
別れを告げるのは、どんなにつらいことだったろう!彼が向こうの聖堂にひざまづいているのを知り、彼に何も与えることが出来ず、助けることも出来ず、彼のために何ものでもありえないというのは、そしていよいよながいあいだ、おそらくは永久に彼から別れて暮らし、彼のたよりをまったく聞かず、彼の声をもはや聞かず、彼の美しい高貴な目をもはや見ないというのは、どんなにつらいことだったろう!
別離/喪失に遭遇したときの感情が言い尽くされていると思う。なにもできない。何ものでもない。何の役にも立たない。もう会うこと聞くこともない。完璧な喪失。
トーマス・マンもそうだが、この頃のドイツ文学は一点で秀でている。失われたものへの憧憬。それはまた嫌悪でもあって、『キャッチャー・イン・ザ・ライ 』が変奏曲になる。残念ながら、自分は美しくない。ナルチスに憧れながらそうではなく、ゴルトムントの喜びを遂に知ることもないのであろう。
本書のテーマは喪失だと思う。というか、大概しつこいと思いつつ、どうしても一点に集約してしまう。いつか、また、機会があったら、って、まあ、ね。
The Thirteen Problems, 1932.
ミス・マープルものの短編集。出版年では、1930年の『牧師館の殺人』("The murder at the Vicarag")の方が早いけれども、書かれたのは、本書に収録された最初の6編(1927-)の方が早いらしい。全部で13編あり、最初の短編6つが書かれ、次いで長編『牧師館の殺人』、そして、残りの6編が書かれて、単行本化するに当たって13編目の短編が書かれたらしい。順番は気にしなくて良いのだけれども。
舞台はイギリスの片田舎、セント・メアリー・ミード。探偵はミス・ジェーン・マープル(Miss Jane Marple)。60代後半で老嬢と称されるミス・マープルはセント・メアリー・ミード村からろくすっぽ出たことがないおばあさんなんだが、話を聞くだけで真相をぴたりと言い当てる。回想の殺人、安楽椅子探偵。
甥のレイモンドを筆頭に、前警視総監や画家などさまざまな職業の人々がミス・マープルの家に集っていた。一人の提案で各自が真相を知っている昔の事件を語り、その解決を推理しあうという“火曜クラブ”ができたが…静かな目立たない田舎の老婦人ミス・マープルが初めて驚異の推理力を披露した短篇13篇を収録。
前半を読んで、アシモフの『黒後家蜘蛛の会』("Tales of The Black Widowers", 1974-)を思い出した。順番は逆なんだが。私はアシモフの方が好きだ。
後半の語り部の一人、ジェーン・ヘリアが好き。クリスティにはよくあるタイプ。自分勝手でわがまま、人のことに無頓着なんだけど、悪びれない。周りの人に対して興味はないんだけど、よく気が回って、対応がとても魅力的。からかわれるのは好きだけどバカにされるのは許せない。というかさせないし、よほどの馬鹿でないとバカにはしない。古い言い方をするとチャーミング。わがままは当たらない。唯我独尊というか天真爛漫というか。
このタイプの登場人物で思い出すのは、ポアロもの『エッジウェア卿の死』("Lord Edgware Dies", 1933)のエッジウェア卿夫人。こういう人が魅力的だというのは、不思議なことだ。それを知っているクリスティは、さぞかし、もてたことだろう。実際そうだったらしいという話をどこかで読んだことがある。こういう人を、これだけ癖なく、嫌味なく、魅力的に書いたものを、クリスティ以外に読んだことがないから、すごいんだと思う。
ちなみに、マープル、あんまり好きじゃない。特に前半のは。
The Mysterious Mr.Quin, 1930.
短編集。主人公は、初老のサタースウェイト氏と謎めいたハーリ・クィン氏。
犯罪ばかりではない。犯罪もあるけど、心理ミステリが多い。類型的には『春にして君と離れ』のような心理ミステリや、『五匹の子豚』のような回想の殺人。
ハーリ・クィン(Harley Quin)はハーレクィン(道化師)。イタリア語ではアルレッキーノ、フランス語ではアルルカン。
最初の話、クィン氏初登場のお話『クィン氏登場』がものすごい。最後の『道化師の小径』、ハーレクィンとコロンビーナがピエロを従えて踊る話もすごい。イタリア・オペラ。
クリスティは多作なので、たくさんの「最後」の作品がある。ポアロの最後"Curtain"とマープルの最後"Sleeping Murder"は、事前に書いておいたものらしい。トミーとタペンスの最後"Postern of Fate" (1973)はクリスティの最後の長編らしい。短編としては、クィン氏とサタースウェイトの邂逅"The Harlequin Tea Set" (1971)。文庫本『マン島の黄金』に収められているらしい。
本書の最後の短編『道化師の小径』で、オスカー・ワイルドの『幸福の王子』に触れられていた。
神さまが天使たちの一人に「町の中で最も貴いものを二つ持ってきなさい」とおっしゃいました。その天使は、神さまのところに鉛の心臓と死んだ鳥を持ってきました。
先週はこんなん読みました。
Partners in Chrime, 1929.
トミー&タペンスもの。短編集。トミー&タペンスものの一冊目『秘密機関』(The Secret Adversary)の次作に当たる。本書を最初に読んでもいいと思う。書かれた時期は、『青列車の秘密』 (The Mystery of the Blue Train)の後、ケイタラム卿の登場する『七つの時計』 (The Seven Dials Mystery)の前。
品が良くて愛らしい。
ベレズフォード夫妻である、トミーとタペンスが、探偵事務所を開いて難事件に当たる。好ましい良品。タペンスが20代後半だと思われるが、とてもかわいい。優れた行動力、理知的思考力と表現されている。気の強さ、辛らつさ、善良さ。天真爛漫さというか茶目っ気というか。
マリオット警部は父親のように二人にほほえみかけた。「こういったからといって気を悪くしないでもらいたいんだが、あなたたちのように生活を楽しんでいる若い人を見ると、嬉しいんですよ」
クリスティにはよくある人物造形ではあるんだけど、主体的に人生を楽しんでおり、クリスティの好きなタイプなんだろう。
でも、プルーデンス・べレズフォード (Prudence Beresford、旧姓Cowley)の愛称がタペンス (Tuppence †) って、どういう順番でどの文字を拾うとそうなんるんだ?前作で説明されたかも。忘れた。
†: 2 pence。2ペンスをタペンスと云うらしい。『秘密機関』の冒頭では「いわくありげな理由によって」とされていた。
『秘密機関』の時は「ふたりの年齢を合わせても四十五歳にもならなかった」と云っていたのの六年後だそうだから、まだ、二十代だよね。28, 29ってとこか。
本書は愛らしい。好ましい。他愛ないけど品が良い。クリスティ初期の良いところ。そりゃファンもできるだろ。よいと思う。
「さあ、みんなでお茶をいただきましょう。国際探偵事務所の成功のために。”ブラントの腕利き探偵たち”のために!失敗などけっしてありませんように!」
失敗などけっしてありませんように。楽しい毎日でありますように。辛いときにはこころやすけきひとがそばにおりますように。
俺ではないのだが。
先週はこんなん読みました。
Appointment with Death, 1938.
ポアロもの。『ナイルに死す』の次作。前作に続いて中近東が舞台。当局のカーバリ大佐は前作のレイス大佐の知り合いだそうだ。
トリックの大どんでん返しはないし、これといった見せ場もない。『五匹の子豚』(1943)に近い。『オリエント急行の殺人』(1934)が何度か引き合いに出されている。
ハッピーエンドだ。それで許されるならば。都合よすぎと思った。弱さは罪じゃなかろうか。何をすべきか知ったならば、それはするべきだと思う。ハッピーエンドが悪いことではないのだけれども。
心理学的な考察によって許容される弱さと言うのはずるいと思う。薬を処方してもらって治ればそれでOKみたいなイージーさ。本作中で心理学的な知見が古いのは、前世紀の前半と思えばしょうがない。
Death on the Nile, 1937.
ポアロもの。舞台はエジプト。ヘイスティングス大尉は名前だけ。途中からレイス大佐。次の四作品に出ているらしい。
『茶色の服の男』だけ読んだことがある。本書では「一年前の奇妙なパーティー」として前作に言及されている。年代順に読もうかな。
長い。登場人物の魅力の粒が揃っている。面白い。傑作とは云わないが。テーマは恋愛感情。ちょっとアレだ。それにしても、いつも思うけど、クリスティの描く女性は魅力的だ。
恋愛感情は自律的に昂進する。そして他の感情も一緒に高まらせる。歓喜であれ、絶望であれ。相手を喜ばせないのであればそれは邪だ。強い感情は誇りや自尊心を押しのけさえする。しかしながら、相手が喜ぶのであれば、なんでもいいじゃないか。被害者はとてもかわいそうなことだ。クリスティにしては珍しいと思う。
人生は虚しい ちょっぴり、恋と ちょっぴり、憎しみと そして、おはよう 人生は短い ちょっぴり、希望と ちょっぴり、夢と そして、おやすみ
自分に対する苦しみ、怒り、絶望。そして憎しみ。希望と夢と、そしてなにもなくなる。夜は心穏やかな夢ををみて安らがんことを。昼は笑いの絶えない毎日であることを。
あんまり本書に関係ない感想。クリスティの作品は、魅力的な人物が犯人、被害者、探偵の何れかである場合が多い。この点、本作の場合は、魅力が粒揃い。
SF短編のアンソロジー。1950年代の短編ばかりで、他の短編集に収められていない秀作を拾ったらしい。
表題作『冷たい方程式』は、J・ティプトリー・ジュニアの『たったひとつの冴えたやりかた』を思い出したが、それほどすごいわけではない。まあ、一度は書かれても良い短編だけど。
アシモフの『信念』は人が何を信じるのかを扱っていて、SFではそれほど珍しいテーマではない。一般には、ニセ科学的なものを信じ込んでしまうことを扱うことが多いと思うが、この短編は、それが事実だったら人はどう扱うかということを考察したもの。アシモフの短編の中でも異色作。テッド・チャンの『ゼロで割る』を思い出した。
全体に古い。50年代だから当然なんだけど。スペース・オペラ臭のするものは苦手だ。違うか。アンソロジーが苦手なのかもしれない。作品ごとに匂いが違いすぎて乗りにくい。こっちのテンションの低さのせいもあると思うけど。
先週はこんなん読みました。
Code of the Lifemaker, 1983.
ハードSFの大家。店子がいるわけではない。同著者の『星を継ぐもの』が、私がSFにいかれた原因の一つ。
山本 弘の『神は沈黙せず』なんかよりも、はるかにすばらしい。少なくとも、私はわくわくして読んだ。
でも、なんかやっぱりお勧めは出来ない。素朴すぎというか。山本弘と比べるのは、同じような似非科学というかオカルトのビリーバーの心理を扱う要素があるからだ。
続くと続くもんだというか、同じような要素は、つい、注目してしまうのが、人間の心性なのだろう。でたらめな単語を続けるのは難しいというか、ランダムというのは難しいものだ。
本書は面白い。でも、SF好きとか、読むものに困ってるとか、速読できるとか、でない限りは、これは勧めない。私は面白かったけど、SF好きだし、本は常になにがしかを読み続けているからだと思う。それでも、ちょっと、受け入れにくく感じるところも散見されたので、SFに興味がある程度であれば、同じ著者の『星を継ぐもの』を勧める。こっちも素朴なんだが、素朴であるなりのよさがある。
先週はこんなん読みました。
評判ええらしいでハードカバーを買って読んでみた。ええはなしやねぇ。長嶋 有の『猛スピードで母は』を思い出した。著者初の長編らしい。うまいしすばらしいと思う。著者にとって大事なことを丁寧に書いたんだろうと思う。読むのがゆっくりになった。そして文章が面白い。
おとんに連れて行かれたオカマバーで、その店のママが自分がオカマになったから母親にずっと会えなかったことを話し、声を出して嗚咽するくだりがある。
そこまで話すとオカマのママはつけ睫毛を飛び散らせながら、声を出して嗚咽した。ボクも、もらい泣きした。オトンは笑っていた。
「ボク!!『おふくろさん』、歌える!?森進一の?」
「は、はい。たぶん」
「歌うてぇ!!」
方言がかんじよい。もう、このひとは、書かなくても良いんじゃないかな。もったいない気もするけれど。
2005年6月初版で、手許にあるのは2006年10月で34版。2006年本屋大賞。Amazon 2006年和書のランキングでは、普通の本の中では、ハリー・ポッターと謎のプリンス ハリー・ポッターシリーズ第六巻、ダ・ヴィンチ・コードに次ぐ。
The Marchant of Venice, 2004.
スクリーンに掛かっているときから観たいと思っていた。シャイロックがアル・パチーノ。所謂「現代的」な解釈が施されており、シャイロックの悲劇として描かれている。それだけに、婿選び(箱選び)と指輪騒動が浮いていると思う。前者は唐突だし、後者は女性が好きな男性をからかうという楽しさが感じられない。メインであろう人肉裁判は、シャイロックの打ちのめされ方に対して、迫力がない。
悪いことばかり書いたが、面白かった。が、個々のエピソードのつながりに無理がありすぎじゃなかろうか。このくらい思い切ったほうが、書きたいところを書き込めるのかもしれないが、それでも、肝心の法廷のシーンの迫力がない。
前半、というか、冒頭、シャイロックが出ずっぱりのところは良かった。残りがなぁ。。。
アントーニオが老練なジェレミー・アイアンズなところはよい。これで若い貴公子然とした役者だったら、シャイロックの魅力に太刀打ちできなかったろう。
この映画、女性が全然きれいじゃない。演技力優先ということだろうか。でも、ポーシャくらいきれいでも良かったのに。法廷シーンで、このシーンを優先した配役かとも思ったけど。きれいな人というのはそのくらい稀有なものかもしれないなとか。
しかし、この脚本、ひどいな。だれが書いたんだ。シェークスピアか。よかったんだけど、もっと良くなると思う。
映像はきれい。
L' Homme du train, 2002.
パトリス・ルコント監督。ジャン・ロシュフォールがおしゃべりで小心な元教師役で、ある日列車に乗ってやってきた寡黙な男ジョニー・アリディと交流し、やがて、お互いの人生を交換することを夢見る。
映像や掛け合いはいい。ジャン・ロシュフォール大好き。『タンデム』みたいな感じかと思ったんだが、そんなに面白くない。
『タンデム』をAmazonで見ると廃盤らしい。一般に、DVDの廃盤の多さに比べると、本の商品点数/廃刊の少なさは特筆すべきものがある。青空文庫やProject Gutenbergみたいに、今後はYouTubeなんかで流れるようになるんだろうか。そうなると、著作権の延長が気になるけど版権とは別の話なんだろうか。廃盤にするなら、諸権利を手放して欲しい。『タンデム』かっこよかったなぁ。
風邪ひいて気持ち悪い。
あきらめましたよ。どうあきらめた。 あきらめきれぬとあきらめた。